「平成の高橋是清」宮沢元首相の経済手腕をどう評価する?
「時代の証人」宮沢元首相死去
07年6月28日午後1時過ぎ、宮沢喜一元首相が老衰のためお亡くなりになりました。87歳でした。「少し休ませてもらう。ゆっくり寝るわ」と付き添いの女性に声をかけた後、そのまま帰らぬ人となったそうです。
当日の朝も新聞に目を通し、周囲が休むように勧めても「もう少し読む」と衰えない好奇心を示していたと報道されています。
政界からは宮沢氏を悼む声が相次いでいます。中曽根康弘元首相は、宮沢氏は「戦後の最高の知性を持った政治家」であり、「首相をやった者同士として、お互いに尊敬し合い、協力してきた」と語っています。
また米元国務長官キッシンジャー氏は、「宮沢氏は日本の優れた指導者であり、友人だった。たくさんのことを彼から学んだ」と声明を発表しました。
宮沢氏は、戦後日本の様々な政策決定の舞台に立ち会った「時代の証人」です。バブル期を経て日本経済が失速する節目で首相、蔵相を経験しました。過去を振り返り、今後の展望を考える上で、大変重要な人物だと思います。【ポイント1】
プラザ合意、バブル崩壊…相次ぐ難題
宮沢氏は1942年、大蔵省(当時)に入省。蔵相秘書官などを経験し、51年にはサンフランシスコ講和会議に全権随員として参加するなど、戦後日本の節目を目の当たりにしてきた人物です。
その後、53年に政治家に転身。62年には池田勇人内閣の経済企画庁長官として初入閣を果たします。このころから、自民党のニューリーダーと目され、要職を歴任しました。
86年には中曽根内閣の蔵相に就任します。非常に困難なタイミングでの蔵相就任といえます。
当時アメリカは、膨大な貿易赤字に苦しんでいました。その是正のために、日米が円高ドル安に向けて協調介入するプラザ合意がなされた直後だったのです。結果、急速な円高が進み、プラザ合意前1ドル235円だったドル円レートは、
1年後には120円台で推移するようになりました。
「貿易立国」日本にとって、急速な円高は大きなダメージです。そのため、宮沢氏は、利下げを実施し、内需拡大のための補正予算を編成しました。後に、この政策決定がバブルを生んだと強く批判を浴びました。
91年11月には首相に就任しましたが、このときもバブルがはじけ日本経済が暗転し始めたという厳しいタイミングでした。
宮沢氏自身は92年夏に、いち早く不良債権問題の解決のため金融機関への公的援助を行う意思を表明しました。しかし、自民党内の派閥争いのため思うように政局を運営できなかったこと、金融機関自身が公的援助に反対したこと、そして何より、当時まだ不良債権問題に対する危機感が薄かったため、結局は実施にいたりませんでした。
そして93年、内閣不信任案が提出され、総選挙を行うも敗退。日本新党の細川護熙氏を首相とする連立内閣が成立し、宮沢氏は戦後自民党一党支配最後の首相となったのです。
その5年後の98年、自民党は公明党との連立により再び政権に返り咲き、小渕恵三内閣が成立しました。その際、小渕首相の強い要請により、宮沢氏は首相経験者としては異例の蔵相に就任、バブル崩壊後の経済運営を任されることになりました。
このことから、同じく首相を経験した後、蔵相として昭和恐慌の処理に当たった高橋是清になぞらえ、宮沢氏は「平成の是清」と称されるようになりました。
では、「平成の是清」はバブル崩壊後の景気を浮上させることができたのでしょうか。自身は日経新聞『私の履歴書』でこう述懐しています。【ポイント2】
使える金はすべてつかって景気を良くする―。蔵相在任中はその一心で、減税や公共事業などのあらゆる景気対策に取り組んだ。しかしいくらカネをつぎ込んでも泥沼にコンクリートパイルを打ち込むような感じだった。いろいろ努力はしてみたが、何をやってもだめだった。
私の履歴書「平成の是清−景気対策の効果なく」より(06年4月29日)
宮沢氏の経済手腕をどう評価する?
結局、日本経済が浮上の兆しを見せるのは01年の小泉純一郎首相の登場後となりました。では、宮沢氏の経済手腕は駄目だったのか。「バブル経済の元凶」、「多額借金を作った張本人」など様々な批判が聞かれます。しかし、私はそうは思っていません。
なぜなら、90年代の日本は「どんなに優れた政治家が登場しても、景気全体を浮揚させることはできなかった」と考えているからです。
私は、株価は消費世代である40代の人口と連動すると考えています。詳細は拙著『投資の木の育て方』などに譲りますが、こちらのグラフをご覧いただければイメージはつかめると思います。
景気の約6割は個人消費に左右されます。また、40代は人生において最もお金を使う「最高消費世代」であると、総務省などの統計からも明らかです。
ということは90年代に、消費世代の減少により景気が減速していくのは、ある意味仕方のないことなのです。
私は、プラザ合意後の内需拡大政策にしろ、バブル崩壊後の積極財政にしろ、宮沢氏の節目節目の政策が間違っていたとは考えていません。むしろ、こうした「種まき」があったからこそ、続く小泉首相が景気回復を実現できたのだろうと考えています。
以前、橋本龍太郎元首相が死去した際、現在の日本の景気回復に道筋をつけたのは「ハシリュウ」だと書きました。
※橋本元首相についてはバックナンバー『ハシリュウは本当に“平成不況の元凶”だったのか?(前編/後編)』をご覧ください。
同様に、宮沢氏についても、優れた見識と知性を併せ持ち、英断を下したからこそ、今の景気回復があるのだと、考えるべきだと思います。【ポイント3】
- 【ポイント1】
- 私が注目している政治ジャーナリスト田勢康弘氏は、日本経済新聞のコラムで「激動の時代と合わなかった知の宰相」として宮沢氏を紹介しています。「最高の政治とは、政治の存在を感じさせない、つまり権力などというものを一切ちらつかせたりしないものなんですよ」という宮沢氏のコメントもあわせて紹介しています。日本が誇る本物の政治家がまたひとりお亡くなりになったことは非常に残念です。
- 【ポイント2】
- 改めて、『私の履歴書』を読み直してみました。株式投資のみならず、歴史から学ぶことは多い、というのが私の持論です。日本がどのように復興してきたか、また、その復興の原点は何か。宮沢氏は『私の履歴書』の最後のコラムで「私の半生の中で、日米関係は自分と切り離すことのできないテーマ」と語っています。宮沢氏の知性が米国にルーツがある、というこのコメントから学ぶべきことは多いでしょう。
- 【ポイント3】
- 田中角栄、大平正芳両氏との不仲により、激動の時代に宰相の座が回ってきたことは、宮沢氏にとって不運だったのでしょうか。私はそうは思いません。強い指導力とは無縁であったからこそ、知力を最大限に生かせる時代に登場したのではないか、と思います。私自身、ファンドマネジャーとして、宮沢氏からは多くのことを学んだような気がします。
政治というと、とかくすぐに「ダメ」と批判するいう論調が多いのは、思考停止と同じことではないでしょうか。1つの施策を知った顔で語るのではなく、背景、人間関係、歴史などをひも解いていくことで、多面的な物事の見方ができるような気がします。宮沢喜一という人物は後世に名を残す偉大な政治家であると思います。(木下)
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木下晃伸(きのしたてるのぶ)
経済アナリスト、フィスコ客員アナリスト。1976年愛知県生まれ。南山大学法学部卒業後、中央三井信託銀行、三菱UFJ投信などを経て、現在は株式会社きのしたてるのぶ事務所代表取締役。(社)日本証券アナリスト協会検定会員。著書『日経新聞の裏を読め』(角川SSコミュニケーションズ)発売中。
投資脳のつくり方
マネー誌「マネージャパン」ウェブコンテンツ。ファンドマネジャー、アナリストとして1,000社以上の上場企業訪問を経験した木下晃伸が株式投資のヒントを日々のニュースからお伝えします。「株式新聞」連載をはじめ雑誌掲載多数。